「幸福」アニエス・ヴァルダ/本当の幸せって何? ♯3人生を学べる映画

こんばんは!
Self-floweringの奥山昭弘です^^

さて「人生を学べる映画」第二回目は、この作品を取り上げることにしました!
↓↓↓

「幸福」
(1965年フランス)
監督:アニエス・ヴァルダ
出演:ジャン=クロード・ドルオー

 

前回のリュミエール!につづき、フランスの映画になります。

リュミエールがはじめての映画を創ってから、
ドーンと70年が経過しまして、1965年の映画です。

といっても現代から見ると、まだまだ大昔ですね(笑)

 

こないだ映画ブログを書くために、今まで観た映画の棚卸をしていました。

国別でいうと、断トツトップがアメリカなのですが(なぜだか悔しい笑)、
その次が日本で、第三位のフランス映画は100本くらいありました。

その中でなんとフランス映画第1位に輝いたのが、この映画「幸福」でした!!

巨匠ルノワールも、ブレッソンも、ゴダールも、「アメリ」も超えてですよ。

ひそかにぼくはこの作品が一位になってくれて、ちょっと驚きでしたし、嬉しかったですね!

 

というのも、誰でも知ってるような作品でなくて、隠された名作ってだけで自尊心が喜びますし(笑)、

とてもゆっくりした地味な映画なのですが、深みがあって考えさせられる内容になっているからです。

まさにこのブログ「人生を学べる映画」にピッタリ♪

そしてラストがとっても印象に残る作品になっています。

 

映画を観る新しい面白さの発見

ぼくは自分のお気に入りの作品は、最低二回以上は観たいタイプです。

一回目はどっぷり映画の世界の中に入って「疑似体験」をする。

そして二回目は、引いてじっくり解析しながら観る。

言ってみれば、一回じゃ把握しきれない不器用なタイプですよね(^_^;)

 

ぼくの行きつけの名画座で、高田馬場に「早稲田松竹」という昔ながらの映画館があります。

そこでちょうど二週間前に「アニエス・ヴァルダ特集」ということで、この映画が二本立て上映することになりました。

こんな50年前の隠れた名作をスクリーンで堪能できるとは、有難い限りです!

これは見逃してはいけないと、金曜日の仕事が終わった後、カフェラテと一緒に映画館に駆け込みました♪

 

この作品をはじめて観たのは4年前です。

その時は、ある意味流されるような形で、
主人公の若い夫婦の人生と結末を、

この娘の人生は、いったいどういう意味があったんだろう?

とか、作者の「幸福とは何か?」という問いかけに対して、
「切ないなー」くらいのフィーリングしか感じられていなかった。

今回はぐっと立ち止まって、もう一歩深く入り込むことできた。

作者の投げかける問いに対し、自分なりの解答を出し、それをぶつけることによって、新たな地平まで行けた!

テーゼ(命題)と、アンチテーゼ(反対の命題)をつきあわすことによって、
ジンテーゼ(統合した新しい命題)にたどりつくというまさにヘーゲルの弁証法

これはぼくが自分で覚えてる限り、役に取り組んだ作品をのぞいてはじめて体験した
映画を観る新しい面白さの発見でした。

例えていえば、地面に手がつくレベルだったのが、
地中を掘って、自分の中にある「石=意志」をつかめるようになった。

なんか言葉に表せない「震える喜び」みたいのがあって、これはなんとか言葉にしてシェアしたいなと思って、今回の題材にあげさせてもらうことにしました。

 

革命の時代に産まれた映画史を覆す「ヌーヴェルバーグ」の誕生

それでは、まずこの作品の創られた時代の背景からみていきましょう。

「幸福」は映画史を大きく変えた大ムーブメントであるヌーヴェルバーグの一本に位置付けられている作品です。

時は1950年後半から、60年代。

戦争前には秩序を保てていた既成概念がメリメリと剥がれ落ちてきて、みんなの心に「疑問符」が生まれだしてきた時代。

世界を巻き込んだ若者たちの革命の時代です。

アメリカではカウンターカルチャーが勃発し、
音楽の分野ではロックンロールが生まれ、
60年代後半にはぼくのルーツである「パンク」に水が注ぎ込まれます!!

サルトルの実存主義が流行したフランスやヨーロッパ社会では、
生きる意味を失った人々が、なんとか生き抜かねばならぬ現実と向きあい、
もはや役に立たなくなった価値を捨て、新しい生き方・哲学を模索していた。

その裏では米ソの冷戦がはじまり、二つの世界大戦で核兵器の恐ろしさを体験した人類は、
地球がいつ滅びてもおかしくない恐怖に怯えていました。

 

ちなみにせつな的には、50年代60年代って、本当にいい映画が詰まっている時代だと思います!

戦争が終わって、自宅で楽しめる強敵テレビが普及したり、今まで秩序を保っていたスタジオシステムが崩壊したりして、映画が産まれて以来の大ピンチにおちいる時代。

そしてそもそも人類自体が、生存のピンチにさらされている状態。

だからこそなのか、生命の危機を感じて残すものを残すぞじゃないけど、
日本も含め、世界的に見逃せない素晴らしい映画が溢れていると思います。

そんな中で、映画史をまっぷたつに割ってしまうほどの大事件「ヌーヴェルバーグ」が産まれます。

 

映画が子供から大人になる過程

ヌーヴェルバーグという運動を定義するのは、とても難しいです。

作風も作家によって全然違いますし、
「テーマ」も「ジャンル」も固定されているわけではない。

斬新的でパンクなゴダールの「勝手にしやがれ」と、
コメディタッチのルイ・マルが創った「地下鉄のザジ」と、
全編歌だけで表現しているミュージカル「シェルブールの雨傘」があったとして、
すべてヌーヴェルバーグだよといっても、しっくりきません(笑)

そんな感じではあるのですが、
一段間ヌーヴェルバーグ以前と以後で大きく変わった特徴を挙げて、観察してみようと思います。

まず制作体制ですが、今までスタジオのシステムの中で映画は創られてきたので、
「助監督」から学びを蓄積して「監督」になるというのが当たり前でした。

それがただのシネフィル(映画マニア)の若い奴らが、助監の道を通らないで映画を自由に創れるようになった。(もちろんお金はかかるけど)

今でいう自主制作の感覚ですかね。

さらに撮る場所も、スタジオ内ではなく、
実際にカメラを外に持ち出して、自然光で撮影するようになった。

そしてちゃんとした役者ではなく、人によっては素人を使ったり、
セリフの書かれたシナリオを使うのではなく、その場で即興演技で撮っていったり、
編集も、フィルムとフィルムをざつにつなげてみたり。

今までと違う試みを、どんどん行っていきました。

 

また小説などと違い、今までは「作家」として扱われていなかった映画監督が、
自分の世界観を表現する作家として取り扱われるようになった。

有名なのが、ヒッチコックやハワード・ホークスですね。

素晴らしい映画監督でありながら、今まで職人的にしか思われていなかったのが、
トリュフォーやゴダールに持ち上げられて、「大作家」として認知された。

もしかしたらぼくも、ヌーヴェルバーグがなかったら、映画監督なんかやろうという欲求が起きてなかったかもしれませんね(笑)

内容の方も、「性の解放」だったり、「若者の本音」だったり、「社会に対する態度」だったり、包み隠さず赤裸々に表現するようになってきますし、本来こうあるべきとされていた構成も、わざと崩すようなこともしていきます。

これってちょうど子供が大人になる過程で、親がやることの逆をやってみるという「イニシエーション(通過儀礼)」の過程と似ていませんか?

実際ある評論家さんが、

はじめて映画が自我を持つようになった

というようなことを書いていて、とても納得しました。

生まれてこれまで必要に応じて変化を繰り返しながら、流れの中で育ってきた「映画」という生命体が、
自分を内省して、いったん今まで形づくってきたものを壊して、新たに自分で決めた新しい規定から、創造してみようという意識が生まれてきた。

失敗を恐れず、自分の心の思うがままに。

 

ざっくりですが、そんな映画史上の革命がヌーヴェルバーグです。

この流れは、戦後イタリアで始まった「ネオリアリズモ」という
ドキュメンタリータッチで、社会の問題を実直に描き出すムーブメントから徐々にはじまり、
「ヌーヴェルバーグ」で明確な形となりました。

そして日本も含め、全世界に瞬く間に伝染していきます。

 

ヌーヴェルバーグのおばあちゃん、アニエス・ヴァルダ

基本的にヌーヴェルバーグというと、ゴダールやトリュフォーなどラディカルな言動で暴れまわっていた
当時の「悪ガキ」たちを思い浮かべると思います。

革命的でコアな映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」の批評からキャリアをスタートさせたいわゆる激しい「右岸派」がいる一方で、セーヌ川を挟んだ反対側にはヴァルダの属する(?)左岸派がいました。

 

こちらサイドの方が、ちょっと知的な感じがぼくはしています(笑)

代表格は日本でも映画を撮った巨匠アラン・レネ、
ヴァルダの旦那さんだった、今は亡きミュージカル映画の名手ジャック・ドゥミ、
そしてこの作品の女流監督アニエス・ヴァルダの三人が有名です。

左岸派の人々は、社会の問題を描きだす記録映画から劇映画に移ってきただけあって、
とても実直に、物語の奥にある「本質」を描き出していきます。

アニエス・ヴァルダは、もともと写真家の出身で、アラン・レネと接触することによって、映画監督への道が開けたようです。

そう聞いてみてみると、絵的なセンスがとてもいい!!

フランスっぽいカラフルな色の使い方もとてもおしゃれだし、
普通幕と幕の間は「黒」でつなぐものだと思いますが、ヴァルダは「青」や「赤」といった色で暗転させます。

こうゆうのってありなんだ!とぼくは超興奮しましたが、ぼくの知ってる限り、こんなおしゃれなつなぎ方をしてるのはヴァルダぐらいです。

 

女性の監督なので、包み込むようなあたたかい感性で描いていきますが、同時にヌーヴェルバーグの一人というのもあり、とても実験的なことが好きな人です。

今回同時上映していたもう一本の代表作「5時から7時までのクレオ」では、5時から7時までの二時間の劇中のリアルタイムを、そのまま移動含めて描いています。

現代ではリチャード・リンクレイターが大好きそうな手法を、先駆けてやっていました。

 

さて、今回も熱くなってはしがきが長くなってしまいましたが(汗、
そろそろ本編のあらすじに入ってまいりましょう。

「幸福」は、空気感・雰囲気から内容まで、どれをとっても大好きです♪

今のように画像数の高い綺麗なカラーと違って、
薄いカラーが、過ぎ去った時代の悲しみのように滲みます。

本当の幸福って何?

今回もエンディングまで書きますので、ネタバレありでお願いします。

この映画で投げかけるのは、おそらく人間が一番大切にしてて、一番快楽を感じるであろう「男女」の関係性についてです。

オープニングで映し出されるのは、太陽に照らされて、だんだんとしぼんでいくヒマワリ。

この絵がこの作品を象徴しています。

ふたつのヒマワリがお互いを見つめあいます。

 

フランスの田舎町に住むフランソワとテレーズの若い夫婦。

二人はすでに幼い子どもが二人いるのですが、
自分たちもまだ純粋無垢さが残った
子どもが大人になったかのような夫婦です。

お金はないけれど満たされた「愛の生活」。

休日には森の中の公園に家族でピクニックに行って、自然とひとつになり、自然に眠たくなっちゃうような
そんな素晴らしき日々を送っています。

夫のフランソワは大工さんをやっていて、たまたま近くのちょっと開けた街に出張に行きます。

そこで郵便局で働いているエミリという若い女性と恋仲になってしまうんですね。

ごく自然に。なんのためらいもなく。

そして恐ろしいことにフランソワは、
二人の女性を愛することに、なんの罪悪感も抱かない。

エミリは動物的で、テレーズは植物的。

どちらも違うし、どちらも愛している。幸せだ。

と、平和ボケしてしまっているフランソワには、純粋すぎて常識的な観念が欠落しています。

 

テレーズがフランソワたちの街に引っ越して来たりしながら、ゆっくりとした時間の中、物語は進んでいきます。

 

そして急激なクライマックス。

時間が過ぎるごとにさすがのテレーズも、旦那の浮気になんとなく気付いてきます。

二人の幸福の公園にて。

(怒らないから)素直に話して、と笑いながらいうテレーズ。

それに対して、本当に素直に話してしまうバカなフランソワ。

「あなたが幸福ならそれでいいわ」というテレーズの言葉を真に受けてしまう。

本当に許されて、これでいいんだと思ってしまう単純で残酷なフランソワ。

二人は緑の中で抱き合って、そのまま寝てしまいます。

子どもたちが起きてきて、「ママはどこに行ったの?」と聞く。

本当だ、ママがいない。

焦って、子どもたちとテレーズを公園中探し回る。

公園の向こう側に人だかりが。

そこには溺死体となったテレーズの身体がありました。

 

残酷なエンディング

魂のなくなったテレーズの身体をを抱き上げるフランソワ。

そこに、テレーズが溺れかけているフラッシュバックが入る。

それはあたかも本当であるかのように、彼が思い込みたい彼の中の真実。

 

本当にテレーズは足を踏み外して、溺れて死んでしまったのか?

それとも無防備な心がこわされて、
あるいは自分が消えてなくなってまで、二人作り上げた幻想の「幸福」を壊すまいとして、
自ら彼女は命を断ったのか?

答えは誰にも分からない。

映画は答えを提示してくれません。

 

バカなフランソワでも、大好きなテレーズがいなくなってしまったんです、さすがに落ち込みます。

しかしその後フランソワはなんの後悔もなく、ごくごく自然であたり前のようにエミリと一緒になります。

二人の子供も単純にエミリを母親として迎えます。

まるでテレーズがいなかったかのように。

そして最後は、冒頭と同じく公園で「幸福」な日々を送ってる
家族の風景で終わります。

男女の違いを超えたディスカッション

このなんともいえない余韻の中、みなさんはどう感じるでしょうか?

町山さんを含め、何人かのレビューを読みましたが、この映画の残酷さが、ある意味ホラー映画より怖いと書いてありました。

そうですね。確かに。

テレーズの人生ってなんだったのでしょう?

そう思うと、悲しくなります。

 

今回のぼくの気づいたこと、感じたこと、発見したこと

あれっと思ったのは、

これって「女性的な観点」じゃない?

と思ったことなんです。

 

もちろん創り手は女性なので、あたり前といえばあたり前なのですが。

主人公は男性ですが、観客が自己同一しやすい目線は、最後に亡くなるテレーズの目線になっています。

とても共感できるし、悪いことじゃないのですが、明らかに作者が思っている観点に誘導されてる感じがしたんです。

そう思った経緯としては、「幸福とは何?」という作者が投げかけるテーマについて、自分なりに考えてみたんですね。

そうするとこんな答えが出てきた。

一瞬の幸福だったら、コロコロ日常に転がっていて、ぼくだったら「甘いものを食べてる時」とか、「何かに集中してるとき」、「気の合う人とのおしゃべり」、「物事を計画してるとき」などに幸福を感じる。

でも本当の幸福って、この相対世界にはない「思考」がないところ、本質的で永遠とか今こことかに象徴される「無」とか「超集中」の領域にあると思います。

観念的でしょ?(笑)

一方、全員の女性がそうだとは言えませんが、少なくともテレーズやエミリは、愛がすべてなのだと思う。

頭だか頭の外だかにある愛や、過去や未来にある愛はどうでもよく、今ここで肌で感じられる愛を求めてる気がする。

 

現実的に「愛」がないと生きていけない。

だからこそテレーズは死を選択まで、愛を守ったんだと思う。

この映画のテーゼって、常識観念を持った人にとっては、ごくごく当たり前の感想が導き出されるものだと思います。

一夫一妻制の環境の上で育っているぼくたちにとっては、フランソワはありえなくて、テレーズがかわいそうになるのが普通だと思う。

そんな風に描くのはずるい、とヴァルダに対し思ったりもしました(笑)

 

しかし、自然というのは、常に二律背反性を内包していて残酷です。

ぼくは一回目に観たとき、ぶっちゃけ両手に花のフランソワに対して、「いいなー、フランソワ。うらやましいなー」と思ってしまいました(汗

それが包み隠しようのない男性の観点。

男性はいくら頭や言葉でカモフラージュしようと、単純でバカです。

女性からみたら許しがたい「都合のよすぎる」本能も、ごまかせずあります。

そんな誰の中にもある「女性」と「男性」のディスカッションを通して、ぼくは自分が本当に欲しがってるものが見えました。

それは、

お互いの違いを理解しあい、男女の違いを超えていきたい

そう思ったこと。

 

それを乗り越えていくのが、本当の愛だと思った。

ありふれた言葉ですが、愛は用意されてるものではなく、
違った個性を持った二人、もしくは多数が、自ら「築き上げる」ものだと思いました。

 

ちなみにフランソワ役の俳優と、テレーズ役の女優は、本当に実生活でも夫婦だということです。

そして、今現在でも(おじいちゃん、おばあちゃんになっているでしょうけど)別れず夫婦でいるそうです。

素晴らしいですね。

映画とは違い、二人で男女の違いを克服し、愛を築いていったのではないかと推測しました。

 

作品が投げかけるテーマ

この映画ブログを書き始めて、明らかに自分の映画の見方が変わってきたと思います。

実は4月にブログを始めて以来、何本も記事を書いては捨てを繰り返し、今回の文章も3回くらい書き直しているのですが(汗、その苦労に見合う実績と実感を感じています。

もっともっと作品の奥の奥まで入り込んでいきたい!というぼくの止まらない欲求。

 

今回の「作品が投げかけるテーマ」については、これから取り上げる作品でも引き続き考察していきたいと思います。

また、みなさんも「思ったこと感じたこと」ありましたら、
是非是非コメントに投げかけてください^^

みんなで深いとこまで食い込んでいきましょう!

それではまた次回っ!!

ヴァルダおばあちゃんは、いまだに健在で、また新しいドキュメンタリー映画を発表するみたいですよ!

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